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モンゴルのイヌワシになる日まで

短歌といろいろ走り書き

どこにあるのかな。

『2014年版新潮文庫の100冊』に、第2回中高生のための新潮文庫ワタシの一行大賞の結果発表がある。この賞は「好きな一冊から気になった一行を選び、その一行に関する『想い』や『エピソード』を記述する、新しいかたちの読書エッセイコンクールです。」と。

 

その冒頭にある選考委員の角田光代さんの言葉の一部と、大賞受賞作を、以下、抜粋させていただきます。

「たった一行で覚えている小説というのは、案外多い。

 その一行をつぶやいただけで、涙腺がゆるむときもある。

 そのうつくしさに、目を見はることも。

 その一行というのは小説の心臓だ。‥

 ‥心臓はひとつではない、読み手によっていくつもある。」

 

大賞は、荒木莉子さん(当時)東京都立国立高等学校一年

石田衣良4TEEN』より

選んだ一行は「そのなかのどこにぼくがあるのかな。」

 今は、他人がどんな生活をおくっていてどんな交友関係をもっているかということが、嫌でも分かる時代だ。私はそんな環境の中で無意識のうちに他人の生活と自分のそれを比べている。そして急に不安になって、無理に友人と遊ぶ計画を入れて安心を得る。更にはその事を生活が充実している証拠として、周りに発信したくなる。つまり、今の私にとっては「理想的な生活」というレールが存在して、それに沿って生きていこうとしている。でも、そのレールに合わせようとすればするほどずれていく現実に不安を感じる毎日だ。

 

 そんな今の私の生き方に、この一行が重く響いた。そして何のためにもらった命だろう、と考え直させられた。「他人と比べる」ためでも「見せつける」ためでもない。自分が行きたい所に進んでいきたい。自分らしく生きていきたいと思えるようになった。

 

荒木さんは、今年高校3年生なのだろうか。自分らしく生きているだろうか。

私の高校時代には、今のようなSNSはなく、通信手段は電話と手紙が主だった。友達や恋人と手紙の交換をしていた。会っていない時間に何をしているかは、お互いに伝えなければ、ほぼ知りえなかった。もしも、今の時代に私が高校生であったら、荒木さんと同じ不安の中で暮らしていたと思う。だって、SNSのない当時でも同じような不安はあったし、大人になった今でさえ、荒木さんの言葉がずしんと響いて、こんなふうに引用させてもらっているほどなのだから。そう、「嫌でも分かる」のだ。いや、本当に嫌なら分からないでもいられるのに、知ろうとしてしまう‥。なぜだ。そうやって自分で自分を苦しめる。SNSは、時におそろしい水面下であると思う。

 

ただ、考えてみると、本当に幸福を感じた瞬間のことは、SNSで発信したりしないな。誰にも打ち明けなかった。その幸福‥安らぎは、ほんの一瞬の光だったけれど、今も目に焼き付いている。なんか、それだけでよかったのかもしれない‥。と、今、思った。

 

ちなみに、角田さんの言葉に関連して言えば、短歌にも、読む人それぞれの「読み」が存在すると言われ、たとえ作者の意図と異なっていても不正解ではない。読みに正解はない、と言われます。ただ、いくつかの読みの中には、「優れた」読みと、そうではない読みがあるようで。歌会という、(多くの場合)作者と読み手が直接交流できる場に参加すると、他者の「読み」にナマで触れられます。その時、確かに、短時間で数歩踏み込んだ読みができる人に接すると、「優れた読み」だなあと感じることがあり、それはとても貴重な経験だと思う。普段はひとりで読み、詠みしている時間が長いから。歌会は、そういった優れた読みができる人たちが集まりたい場であって、読むのに時間がかかり、深くまで読み取れない自分は邪魔で、居ない方がよいのではないか、と思ったこともあったのだけど、これからは、わからないことには、沈黙ではなく、わかりません、と発言すればいいのだ、というような気持ちでいます。自分で場所を作ってみるということもしてみたいな。