モンゴルのイヌワシになる日まで

短歌といろいろ走り書き

あなたの夢は何ですか?

穂村弘さんにはまり始めたちょうどその頃、歌人山田航さんが、穂村さんのエッセイを読み解く講座を始めることを知って、私、すぐに申し込んだのです。だから、最初はエッセイを読むだけで、本格的に短歌を作るなんて思ってもみなかった。でも、講座が進むにつれて、7・7のリズムで何か作ってみましょう、とか、7・5を繰り返す歌詞を探してみましょう、とか宿題が出るようになって、そのうち、自由詠で1首、題詠で1首など、気が付けばエッセイから短歌へすっかり移行していた。

 

そうして短歌を読み・作りするようになってから、短歌に関する入門書や同人誌、歌集等、たくさん面白い本に出合って、穂村さん以外にも興味のある人が出てきて、結果、最近は穂村さんのエッセイや短歌関連の本をあまり読んでいないと気付いた。どうしてあんなに穂村さんにはまったのか、ちょっと振り返ってみようと思った。で、まずはネットで穂村さんの過去のインタビュー記事を色々見てみたところ、ああ、穂村さんに強烈に共感したからだったと思い出した。

 

例えば過去のインタビューにある穂村さんの発言の中に、「自分に対する執着・自意識の強さと自我の弱さ」「さみしくて気が狂いそう」「愛されたいとか受け入れられたいとかそういう気持ちがすごく強い。でも、それすごく普通ですよね」などの言葉があって(私の持っていた印象以上に熱っぽい内容ではあったのだけど)、穂村さんのエッセイも短歌も、結局すべてこういう精神とか感情が核になっていて、で、それをごまかさないで提示する、ごまかすくらいなら短歌なんてやる理由は全然ない、っていう潔さというか、切実さに打たれたのだと思った。

 

私が初めて歌会に参加して、作者は誰か明かされない状態で、初めて他の人から直接自分の歌についての評を聞かせてもらったときのことを今でも覚えている。

彼「この人(作者である私)は、身勝手ですよね。相手の気持ちなんて全然考えてい ない。相手は迷惑かもしれないのに。この人は自分勝手だと思います」

私(ドキッ!!やばい。性格が‥私の悪いところがバレバレじゃないか!ひぃ~~)

彼「‥‥でも、そこがいいと思いました」

私(ふぇ?! ‥そこが、いいの?????)

 

短歌って、一般社会では短所とされがちな性格や、ネガティブな感情こそ表現することがよいとされるところがあって(他の表現行為でもそうかもしれないけれど、特に短歌はそういう面が強い気がします)、でも当時は、そういうことをまだ全然知らなかったから、「そこがいい」と言われてとても驚いた。驚きながら、短歌って、自分で嫌だなと思う性格を、それでもいいんじゃない?と言ってもらえる世界なのかもしれないと、受け入れてもらえる世界なのかもしれないと、その時感じて、短歌を続けるきっかけになった出来事だった。山田さんの講座でも歌会をするのだけど、山田さんも常々、一般的にはネガティブに捉えられるようなところを、いいですね、って褒めてくれる。だから、講座に行くと、とても癒される。自分がいても許される場所、ホームっていう感じがする。

 

私が欲しいものは、もうずっと、多分生まれたときからたった一つしかなくて、その一つが手に入ったら、短歌を作るのをやめる気がする。やめるというか、作れなくなる気がする。満ち足りてしまえば、自分の中から短歌は消えてしまう気がする。そのたった一つを手に入れたくて、今は短歌で叫んでいるのだと思う。手に入れることが人生の幸せだと今は思っているから、早く短歌を忘れる日が来るといいなあと思うのだけど、どうなのかな。でも、そのたった一つを、私は、18才の時に諦めてしまった。それからずっと、諦めている。だから、本当は、一生手に入らないのだろうと思っている。でも、それでもダサく必死にもがいて、そうして死んでもいい気もしてきて、‥‥うーん。わからないですね。わからないけれど、自分だけが、自分を苦しめたり、幸せにすることができるんだということは分かっている。

 

ただ、上記の穂村さんのインタビューの中で、「夢をなくしてもいいと思ったやつだけが夢をなくすと思っている」「今は存在しないものに対する憧れを持とうとすると、気が狂いそうになるんだ、必ず。で、今は存在しないものに対する憧れはあるけど、気が狂いそうじゃないっていうやつを信用しないんだよね」ってあって、今は、こういう気持ちを支えにして生きたい気持ちも芽生え始めています。

どこにあるのかな。

『2014年版新潮文庫の100冊』に、第2回中高生のための新潮文庫ワタシの一行大賞の結果発表がある。この賞は「好きな一冊から気になった一行を選び、その一行に関する『想い』や『エピソード』を記述する、新しいかたちの読書エッセイコンクールです。」と。

 

その冒頭にある選考委員の角田光代さんの言葉の一部と、大賞受賞作を、以下、抜粋させていただきます。

「たった一行で覚えている小説というのは、案外多い。

 その一行をつぶやいただけで、涙腺がゆるむときもある。

 そのうつくしさに、目を見はることも。

 その一行というのは小説の心臓だ。‥

 ‥心臓はひとつではない、読み手によっていくつもある。」

 

大賞は、荒木莉子さん(当時)東京都立国立高等学校一年

石田衣良4TEEN』より

選んだ一行は「そのなかのどこにぼくがあるのかな。」

 今は、他人がどんな生活をおくっていてどんな交友関係をもっているかということが、嫌でも分かる時代だ。私はそんな環境の中で無意識のうちに他人の生活と自分のそれを比べている。そして急に不安になって、無理に友人と遊ぶ計画を入れて安心を得る。更にはその事を生活が充実している証拠として、周りに発信したくなる。つまり、今の私にとっては「理想的な生活」というレールが存在して、それに沿って生きていこうとしている。でも、そのレールに合わせようとすればするほどずれていく現実に不安を感じる毎日だ。

 

 そんな今の私の生き方に、この一行が重く響いた。そして何のためにもらった命だろう、と考え直させられた。「他人と比べる」ためでも「見せつける」ためでもない。自分が行きたい所に進んでいきたい。自分らしく生きていきたいと思えるようになった。

 

荒木さんは、今年高校3年生なのだろうか。自分らしく生きているだろうか。

私の高校時代には、今のようなSNSはなく、通信手段は電話と手紙が主だった。友達や恋人と手紙の交換をしていた。会っていない時間に何をしているかは、お互いに伝えなければ、ほぼ知りえなかった。もしも、今の時代に私が高校生であったら、荒木さんと同じ不安の中で暮らしていたと思う。だって、SNSのない当時でも同じような不安はあったし、大人になった今でさえ、荒木さんの言葉がずしんと響いて、こんなふうに引用させてもらっているほどなのだから。そう、「嫌でも分かる」のだ。いや、本当に嫌なら分からないでもいられるのに、知ろうとしてしまう‥。なぜだ。そうやって自分で自分を苦しめる。SNSは、時におそろしい水面下であると思う。

 

ただ、考えてみると、本当に幸福を感じた瞬間のことは、SNSで発信したりしないな。誰にも打ち明けなかった。その幸福‥安らぎは、ほんの一瞬の光だったけれど、今も目に焼き付いている。なんか、それだけでよかったのかもしれない‥。と、今、思った。

 

ちなみに、角田さんの言葉に関連して言えば、短歌にも、読む人それぞれの「読み」が存在すると言われ、たとえ作者の意図と異なっていても不正解ではない。読みに正解はない、と言われます。ただ、いくつかの読みの中には、「優れた」読みと、そうではない読みがあるようで。歌会という、(多くの場合)作者と読み手が直接交流できる場に参加すると、他者の「読み」にナマで触れられます。その時、確かに、短時間で数歩踏み込んだ読みができる人に接すると、「優れた読み」だなあと感じることがあり、それはとても貴重な経験だと思う。普段はひとりで読み、詠みしている時間が長いから。歌会は、そういった優れた読みができる人たちが集まりたい場であって、読むのに時間がかかり、深くまで読み取れない自分は邪魔で、居ない方がよいのではないか、と思ったこともあったのだけど、これからは、わからないことには、沈黙ではなく、わかりません、と発言すればいいのだ、というような気持ちでいます。自分で場所を作ってみるということもしてみたいな。

二度目まして

初めまして。

私は短歌を作ったり、読んだりしています。

この春で4年目に入ります。

短歌を作り始めたきっかけは、歌人穂村弘さんのエッセイを読んだこと。

当時好きな人がいたのだけど、男心が全然わからなくて、男心を勉強しよう!と思って、ちょうどテレビで見かけた、角田光代さんとの共著『異性』を読んだところ(‥目的に対してはちょっと間違った選択であった気がする)、穂村さんの文章がとても面白くて、そこから次々に穂村さんのエッセイに手を出していき‥(少し割愛)‥短歌に行き着いた。という訳です。

で、4年目に入るにあたって思うことは、これからはまだ会っていない誰かに向けて歌を作っていきたいということ。

表現には受け手の存在が不可欠である、みたいなことを大学時代に習ったわけですが、短歌で、ただ作歌するだけでなく、なぜ発表・発信するかというと、やはりそこには伝えたい誰かがいるわけで。それが、特定の誰かである場合と、不特定多数である場合とがあって、今まではどちらかと言うと前者であったと思うのだけど、これからは後者を意識したいな、と。

そして、例えば悩みがあるとして、その悩みに集中し過ぎているとき、私は、「自分」が大きくなりすぎて、他者の存在を意識できなくなってしまうのだけど、大抵のことって、多くの人が共通の悩みを抱えていたりするはずなので、歌を通して、その見も知らない他者とつながる瞬間があるかもしれない、という微かな祈りが、うーん、あります。そうやって、自分が勝手に救われようとしているのかもしれないけれど、私が読み手の側に立った時、勝手に救われる瞬間があるので、なんというか、今は、そんな気持ちがあります。でも、そうやって救われたいのは、やっぱり自分なのかな。そうですね。私はしょうもない。

普段の生活で、ほとんど人と会話をせずに終わる日もあって、もともと上手ではなかった会話やコミュニケーションが、ますます下手で苦手になってきていて、語彙も少ないし、ここでも上手く表現できるか自信はないですが、続くかも分からないですが、今は、とりあえず何でも始めてみる、ってことで。

 

ちなみに、初めまして と書き始めましたけど、去年ブログを一時期書いていたんですよね。だから正しくは、二度目まして でした。